ホッチキス物語

日本とホッチキスの出会い

A式綴紙器

日本人によるホッチキスの発明は、特許公報によると明治45年(1912年)「自働紙綴器」発明者は垣内清八氏、大正元年(1912年)「A式綴紙器」発明者は天野修一氏らが最初とあります。「自働紙綴器」はかなり大型のようですが、「A式綴紙器」はホッチキス社製の物とよく似ています。

堀井謄写堂(コスモス印)

大正3~4年(1914~15年)には、アメリカ製のアクメ(1号ホッチキス)が輸入され、このころ針は鉄板をプレスしたムカデ形(アクメ針)でした。大正7年(1918年)になると伊藤喜商店〈ハト印〉、堀井謄写堂〈コスモス印〉が国内で生産されるようになりました。大正15年(1926年)にはそれまでの鋳物製とは違い、プレス加工のジョイント(2号)が雨森文永堂から発売。その後1年程で、ドイツから3号の綴針が輸入され、昭和3年(1928年)に3号針を使用するスマート3号がつくられました。

ホルダー9号(ただし昭和26年{1951年}の製品)

昭和10年(1935年)頃には、向野事務器製作所(東京都大田区)の向野光雄社長は2号・3号・9号ホッチキスを設計し、製造していました。当時、スマートと言った場合3号をさし、ジョイントは2号、ホルダーは9号(昭和9年{1934年}発売)がそれぞれホッチキスの呼称でした。戦時中は、9号ホッチキスのみ軍服の補修用として軍より認められ、生産されていたとのことです。

昭和21年(1946年)に山田興業(株)(現マックス(株))が、3号ホッチキスの生産を開始したことにより、戦後のホッチキスが始まりました。