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Award Result10

マックス「心のホッチキス・ストーリー」

結果発表

募集期間 2019年10月1日(火)~ 2019年11月29日(金)

応募作品の傾向

2019年は、新元号「令和」の祝賀行事にラグビーチームの活躍など、明るい話題があった一方、台風による自然災害などもあり、様々なニュースが報じられた1年でした。

応募作品では、「家族」や「友人」、「偶然出会った優しい人」とのエピソードを綴った作品などが寄せられ、その時のことをこれからも大切な思い出として、ずっと残していきたいと思っていることが感じられました。

「マックス・心のホッチキス大賞」は、病気の父との向き合い方に悩み、口論をきっかけに感情的になるものの、父と互いに素直になることで自分の知っている頼れる父を思い出す作品です。病気という、困難な状況にとまどいながらも、家族の絆で乗り越えていった彼の気持ちが綴られた作品でした。

「マックス・U-18大賞」は、電車通学の女の子が降りる駅を乗り過ごした時に、優しく付き添ってくれたお姉さん達が、心配する家族に書いてくれた手紙に温かさを感じた作品など3作品が 、「マックス賞」には 、家族に伝わる柿の木の物語を大切に伝承する作品など5作品が入賞しました。「No.10賞」には、定年後の再就職先の環境に戸惑う男性を、息子が力強く激励する作品など10作品が入賞しました。

マックス・心のホッチキス大賞

KJさん(神奈川県 / 15歳)

KJさん(神奈川県 / 15歳)

「お父さんはがんです。三か月持てばいい方でしょう。通院で抗がん剤治療は続けましょうか。」突然言われた。何て言われたのかよくわからなかった。わかりたくなかった。

退院してきた父は前より弱弱しく、ひがみ気味になっていた。抗がん剤や輸血を続けながら必死に生きている父を、どう受け入れていいのか僕は分からないまま、三か月は過ぎて行った。

「それ」が起きたのは三か月以上経った冬の夜だった。僕が洗面所で歯磨きをしていたときのことだ。父が「手を洗うからどけ」と言った。「今使っているから無理」と答えると、疲れで苛ついていた父とケンカになった。向こうが僕をはたこうとしたが、夢中になった僕は過度によけた。父の手は壁にぶつかり、血が出てきた。母が駆け付け僕と父をしかる。しかし激情した父は、僕に「出ていけ!」と騒ぎ始めた。僕は自分の部屋に駆け込むと、怒りを鎮める為に六回息を深く吐く。しかし僕は息と一緒に、一生後悔するであろう言葉を吐いてしまった。

「うっせ、死ね!」と言ってしまった。

それを聞いた父は怒り、驚き、悲しみなど様々な感情を感じただろう。そして僕を殴ろうとした。それを止めながら母は押し出すような声で言った。

「パパは前とはちがうんだよ。他の人の血を貰いながらも生きてるんだよ。」

怒りの気持ちはどこかへ抜けていった。代わりに感じたのは、罪悪感と自分に対する嫌悪だった。今僕は何と言った?頑張って生きている人に対して死ねと言わなかったか?こんなにひどい奴がこの家にいていいわけがない。いいよ。出て行くよ。「じゃあね。」というと上着を羽織って外に飛び出した。母の声が聞こえたが無視して駆け出した。

寒くはなかった。心配しているかな、とも思わなかった。ただどこか家から離れたかった。死ね、なんて言っちゃいけなかったのに。人を見る度に泣きそうになったが、泣いたら駄目だ、という気持ちがそれを抑えた。

一時間程だっただろうか。気付いたら家のドアの前にいた。母は叫びながら僕を抱きしめた。父は「帰って来たか。」とだけ言うとそのまま黙り込んでいた。

なんで戻って来たのかわからなかった。僕は一言も喋らずに自分の部屋で虚空を見つめてボーっとしていた。しばらくして父が入って来た。父の姿を見ると、これまでの感情が上がってきた。今度はそれを押しとどめるものはなかった。「ごめんなさい」と繰り返し泣きじゃくる僕を、父は抱きしめて言った。「ごめんな。迷惑かけているのに。許してくれ。」許しを求めるのは僕のほうだ。前が見えなくなるほど泣いた。そしてこの時だけ父は父だった。僕の知っている、頼もしく、広い背中を持ち、僕の全てを分かってくれる父だった。

波が引いた後に食べたうどんは味こそわからないものの、温かったことは憶えている。

結局余命宣告から一年経って父は死んだ。最期に僕の指を握って一生懸命離すまいとしていた。今も死んだという事実が理解できない。しかしいつかは受け入れられるようになるだろう。その時の為にこの苦くて、でも父との最高の思い出を残しておきたい。

マックス・U-18大賞 < 高校生の部 >

[   A   ]さん(兵庫県 / 18歳)

[ A ]さん(兵庫県 / 18歳)

祖父母の家には、祖母が漬けている梅酒の瓶がある。その中に1本、普通ではないぐらいに長く―僕が生まれたころちょうどその日から―漬けられている梅酒がある。ちなみに普通なら1年ほどで充分おいしいらしい。

つい先日まで、僕はこの梅酒の存在を知らなかったし、こんなにも長く漬けられている理由など知る由もなかった。というのも、その梅酒を残しておくように言ったのは僕の父で、父は僕が中1の頃に他界した。それまでに梅酒のことは聞かされなかった。初めて知ったのは高2の頃だ。

父は、僕が成人したらその梅酒を開け、一緒に飲むのが夢だったそうだ。仕事帰りに祖父母の家に寄ってその瓶を見るたびに、ずっと言っていたらしい。親には言っておいて、息子には言わないとは、なんとも言葉足らずな父親だ。

父の死後はただ淡々と毎日を過ごしていたが、このことを聞いてから、僕も父親と同じ夢を持って生きている。夢が叶うのもあと2年を切ったが、他の家族には、成人したら父と例の梅酒を飲むのが夢だなんて恥ずかしくて言っていない。父も同じ気持ちだったのだろうか。いつの間にか、僕も父親に似るようになったのかもしれない。

マックス・U-18大賞 < 中学生の部 >

ネギヤンさん(神奈川県 / 13歳)

祖母は心配性だ。中学に入って一度も欠かさず駅まで僕を送迎してくれる。「こんなに荷物が重かったら背が伸びない」「暗い道は危ない」と、自転車の荷台に僕の荷物をのせる。その隣を、祖母の自転車がふらつくといけないのでなるべく速く僕は走る。走りながら学校の話をする。

「年をとると運動不足になるから。楽しみで迎えに行くのだから。」
といつも言うが、僕はやはり心配になる。暗い夜道を一人で迎えに来てくれるのだ。

僕は背が伸び、祖母は背が縮んでもう少しで身長がならぶ。しかし、祖母にとってはいつまでも小さい孫なのだろう。できれば僕はもうそんなことをしてもらわなくても大丈夫という所を見せたい気持ちもある。しかし、祖母とおしゃべりしながら帰る道をしばらく楽しみたい。

マックス・U-18大賞 < 小学生以下の部 >

カシワモチさん(大阪府 / 8歳)

「どうしたの?」

小学1年生の時、電車通学をしているわたしは、おりるえきをのりすごしてしまい、ふあんでいっぱいでないてしまいました。その時、高校生くらいのお姉さん2人が、声をかけてくれておりるべきえきまでいっしょについてきてくれました。

「お母さん、しんぱいしているかも。」
と、お姉さんたちに話すと、

「ちょっとまってね。」
と言って、かわいいメモ用紙に何かを書いて、

「お母さんに、わたしてね。」
と言って、わたしにわたしてくれました。

もよりえきでまってくれていたお母さんと、メモ用紙を読んでみると、

「あきえちゃんのお母さま

あきえちゃんしんさいばしまで来てしまったようで、少し帰りがおくれてしまいました。しっかりしててえらいですね。通りすがりのお姉さんより。」
と書いてくれていて、とてもうれしかったです。

お母さんは、

「しん切な人にまもられてよかったね。ありがたいね」
と言って、なみだぐんでいました。

しょう来わたしも、あのお姉さんたちのように、しん切で、心やさしい人になりたいです。

マックス賞

ジャイ子さん(宮崎県 / 10代)

ジャイ子さん(宮崎県 / 10代)

ある日、僕は、クリスマスケーキを買いに近所のお菓子屋さんに来ていました。店内には、僕と大学生くらいの背の高い男性がいました。

店内を見回っていると、小学校低学年くらいの女の子が一人で入ってきました。おそらく、僕と同じでクリスマスケーキのおつかいに来たのでしょう。右手に千円札を二枚にぎって嬉しそうに入ってきました。その子は、入った途端ガラスに張りついて、選び始めました。

僕が、ケーキ選びに迷っていると、その子は、

「これがいい!」
と、大きなフルーツタルトを指さしました。店員さんは、それを取り出し箱詰めをして、お会計をすると、それは、二千百円で百円足りないのです。その子が困っていたその時でした。その子の目の前に千円札がヒラヒラと落ちてきました。それを拾って顔を上げると、大学生くらいの男性のものでした。すると男性は、

「ありがとう。お金を届けたら、お礼に一割もらえるんだよ。」
と言って百円を渡しました。お礼としてならその子も受け取りやすく、たちまち笑顔になりました。店内は十二月とは思えないほど温かい空気に包まれ、僕は、大きくなったらこうなりたいと心から思いました。

あおいもりさん(千葉県 / 30代)

毎日の何気ない会話からだった。次男は今日あった保育園での出来事を話し終えると、突然、質問をしてきた。「パパは誰が好き?」私は特に考えもせずに、「ママと、お兄ちゃんと、おまえだよ」と答えた。すると、間髪入れずに「なんで?自分は?」と不思議そうに聞き返してきた。予想外の問答に私が戸惑っていると、四歳になったばかりの次男は諭すように言った。

「自分も、良い人だよ」

溢れそうになる涙をグっと堪えた。闘病から仕事を離れて八年。自宅で妻に看護される毎日に、気づけば自分を愛することさえ忘れてしまっていた。そうか、たとえお金を稼げなくても、支えてもらうばかりの日々であっても、懸命に生きている自分を愛していいのか…。息子の言葉によって、自分が救われた瞬間だった。

将来、息子たちが大きくなった時、もしも自分自身を嫌いそうになっていたら、今度は私がこの言葉をかけてあげよう。そのためにも、私は私の道を迷わずに、今日も一歩ずつ歩んでゆこうと思う。

みぽんちゃんさん(東京都 / 8歳)

祖母の家のうら庭に“吾朗さんの柿”という大きな柿の木があります。今年もたくさん実り、植木屋さんに収かくをお願いしました。大きくきれいな実を選んで仏様にそなえて、私達も食べました。売っているものより甘くジューシーでとても美味しいです。

私にはひいじい(九十四才)がいます。毎日遊んでもらったりしてきました。ひいじいは七人兄弟ですが今のこっているのは二人だけになってしまいました。

吾朗さんはひいじいの弟です。昭和十四年に七才で亡くなりました。当時ひいじいは学生でしたが、戦争が近づいていて自由に自分の進路を選べる時代ではなく、男六人の兄弟のうち四人が国立大学の教育学部に進学したそうです。そうする事が一番兵隊にとられるのがおそいからだそうです。ひいじいの母、私の祖母の祖母はそうする事で自分の息子達を守ったのです。

そんな時代ですから小児医りょうなど、まん足できるものでなく、吾朗さんは亡くなりました。

祖母は小さい時から

「この柿は十一月にならないと、とっちゃだめ。吾朗さんの命日が過ぎてからね。」
と言われて育ったそうです。祖母の祖母は幼く亡くなった自分の子をわすれてほしくなかったのだと思います。柿と命日をセットにして祖母に伝えた事で、私達にも伝わりました。

ひいじいに、

「吾朗さん、おぼえてる」
と聞いたら、

「かわいい子だった」
と、うれしそうに答えてくれました。

大丈夫。しっかり私にも伝わりました。ひいひいばあの気持ち、しっかり伝わりました。ひいひいばあがとても近くに感じられます。

ながれぼしさん(東京都 / 8歳)

ながれぼしさん(東京都 / 8歳)

わたしは、二年生になってあるまほうがつかえるようになりました。それは、「なかなおりのまほう」です。

このまほうを知るまでは、お友だちにうまく自分の気もちをつたえられなくて、先生やお母さんにそうだんすることしかできませんでした。そんな時、お母さんが

「まほうをつかってごらん。」
と言いました。それは、すなおになるまほう。あい手に「ありがとう」と「ごめんね」の気もちをすなおにつたえることです。先生が、お友だちとなかなおりさせてくれた時、わたしはまほうを思い出して、「ごめんね」とあやまることができました。

それからわたしは自分でなかなおりのまほうをつかって、なかなおりできるようになりました。これからもこのまほうを思い出して、もっとお友だちとなかよくなれたらいいな。そして自分い外の人のためにこのまほうをつかったらもっと学校がたのしくなるとおもいました。

さとこさん(島根県 / 40代)

小学二年生の春、生まれて初めて自分から贈り物をした。当時両親は共働きで、母との時間がほとんどなかった。私はふと母の誕生日が近いことに気づき花束を贈ることを思いついた。貯めていたお小遣いの二百円を握りしめ、近くの購買店へ走る。母の喜ぶ顔が浮かび心が躍るようだった。店先にはマーガレットやガーベラなど色んな花が水を張ったバケツに無造作に置かれている。だが、その値札を見て思わず立ち尽くしてしまった。私が持っていたお金で買えるのは、せいぜい一本か二本。そんなのは花束とは言えない。二枚の百円玉を力いっぱい握りしめた。母の笑顔が遠のいていく。急に自分の無力さが身にしみて惨めな気持ちになった。

「いくら持っとうと?」背後で声がした。振り返ると購買店のおばあちゃんが私の顔を覗き込んでいた。私がお金を持っていないことを見透かされてるようで恥ずかしくなり、今にも泣きそうな声で答えた。「二百円。」
すると、「どんな花が欲しいとね?」不愛想なおばあちゃんは、にこりともしないで淡々と聞いてくる。

「お母さんの誕生日にお花を買おうと思って…でも…」私が言い終わらないうちに、「じゃあ、ついておいで」そう言うと、おばあちゃんは店を出て、すたすたと歩きだした。道を渡り、家々の間を通り抜け坂道を登ると立派な木造の家が見えてきた。その家の敷地には、幾つものバケツが置かれ、中にはきれいな花が所狭しと並んでいた。おばあちゃんは、きれいな花を三本、四本とどんどん束ねていく。

「こんなんでどうやろうか」二百円ではとても買えないような華やかな花束が出来上がった。嬉しかったが、私の持ち金では全然足りない。受け取っていいものか迷う私に「家で咲いたのやけん、持って行き」押しつけるように私の手に持たせてくれた。

「お母さん、きっと喜ぶたい。」おばあちゃんが、初めてしわくちゃの笑顔を見せた。

「ありがとうございました」頭を下げ、緊張で汗まみれになった二百円を渡し帰って来た。家に着くと、母が花束を見て目を丸くし、嬉しそうに抱きしめてくれた。引っ込み思案な性格で言葉が足りなかった私の心を読んでくれたおばあちゃん。心が温まる忘れられない一日だった。

No.10賞

樋口 麻伊さん(埼玉県 / 20代)

もうすぐ1歳の誕生日を迎える娘が、「ありがとう」を覚えた。おじきをしながら「あーり」と言う。

何度も何度もくり返すその姿が愛おしく、動画を撮ろうとスマホを手にすると、そこには夫から「遅くなる」のメッセージが。

以前は私たちを気遣う一言が添えられていたが、この頃は一文のみ。思わず溜息が漏れた。娘は感謝の言葉を覚えたというのに…。しかし同時に、はっとした。私は?最後に夫にありがとうを言ったのは、いつだっけ。

子どもが生まれて、しっかり者の年上の夫が急に頼りなく感じるようになった。でも、夫も父としては1年生。お互いの苦労は比べられないけど、きっと同じくらい、手さぐりで頑張ってきた。

その日は久々に置手紙を書いた。「先に寝るね。おつかれさま。」ベッドへ向かおうとしたとき、玄関のドアがそうっと開いた。私の好きなプリンの紙袋を片手に、少し疲れた笑顔で夫は、「寝かしつけありがとう。おつかれさま。」と言った。娘はこれから、たくさんの言葉を覚えていく。私たちは、どれだけの言葉を大切に、忘れずに過ごしていけるだろう。

いちごオーレさん(静岡県 / 10代)

「いつもありがとう」いつかこの言葉が素直に言える日がくるだろうか。

私は極度の短気だ。すぐ怒るし、すぐ機嫌が悪くなる。その上、言葉に表すのが下手で常に家の中ではわがままな末っ子。そんな私には性格が真反対で優しい兄がいる。何かと比べられて生きてきた私はいつも良いように言われる兄のことが鼻につく存在だった。

「なんで私ばかり悪く言われるんだ。」
そう窓から叫んだことも少なくない。だから兄相手に好き放題迷惑をかけた。

けれど、兄は決して私を見捨てたりしない。私の機嫌が悪ければ全力で笑わせてくれる。落ちこんでいたら何も言わずに好きな料理を作ってくれる。オチのないどうでもいい私の話を永遠聞いてくれる。私はたまにしか聞かないのに。

ある日、ふと「ごめんね。」と謝ったことがある。喧嘩したわけではない。普段私が兄にしている全てに対して。すると、兄は全て見透かしたように「意味わかんねぇ。」と笑った。ああ、勝てないなとその時つくづく感じた。

まだまだあの言葉を言える日は来なさそうだ。けれど兄は私の憧れである。いつかこんな温かい人になりたいと思う。絶対に兄には言わないけど。

よっちゃんさん(群馬県 / 60代)

還暦を過ぎ61歳で再就職した私。今までお山の大将の如く会社で振る舞ってきたが、再就職先では私は新人。しかも仕事は未経験なので1から10まで分からない。しかも私は仕事を覚えるまでが遅い。毎日年下の先輩から注意、叱責を受ける日々。落ち込んで帰宅する私を見て妻は優しく「辛かったら仕事辞めてもいいよ」と言ってくれたが、息子は違った。「仕事は厳しいのが当たり前」「俺はもっと言われたよ」と私の負けん気に火をつけてくれた。普通父親が息子に言う言葉を言われた為、本気で仕事に打ち込む事が出来た。注意を受ける度に「ありがとうございます」の言葉が素直に言えるようになり、過去の自分を振り返る事がなくなった。入社2か月で技術資格に合格して研修も終わり職場にも馴染んできた。息子のあの一言がなければ過去の自分ばかり振り返り社会に適合できず家に引き籠っていたかもしれない。愛情一杯の苦言を呈してくれた息子よ。まだ頑張れる親父を見守って欲しい。

かよさん(大阪府 / 8歳)

「友だちになろう。」

「うん。いいよ。」

これは、わたしが一年生の時のことです。まい日はじめてのことばかりで、心の中で楽しみと心ぱいが、ぐるぐるまわっていました。

そんなわたしたちのために、たんにんの先生が「友だちカード」を作ってくれました。そのカードには、クラスのみんなのせきの場しょと名前が絵でかかれていました。

「友だちになった子の絵に、色をぬろうね。」と先生が言ったので、ゲームのようにしてどんどん声をかけていけました。

はじめて声をかける時は、とてもどきどきします。でも思い切って「友だちになろう。」と声をかけるとみんな、にっこりえ顔で「うん。いいよ。」とこたえてくれました。この声は、友達とわたしの心をつなぐホッチキスのようでした。教室のあちこちで心のホッチキスの「いいよ。」の音が聞こえて、わたしはとてもうれしい気もちになりました。

ぱすたさん(静岡県 / 10代)

二年前の冬、私はあるおじいさんと出会った。

その日私は近所にある、デイサービスセンターに来ていた。私が小学生の時から毎年訪れる、大好きな場所。そこで、たくさんの利用者さんとお話をしたり、一緒にレクリエーションをするのが、毎年の楽しみだった。この年も、利用者さんとお話していると、ある一人の方に目が止まった。そのおじいさんは静かで寡黙そうな印象だった。私が話しかけてみても最初はあまり楽しそうではなかった。しかしたくさん話をしていくにつれて、少しずつ笑顔が見られるようになった。そこからたくさんお話をした。おじいさんの笑顔を見ると心が温かくなるような気がした。

その日、私が家に帰ろうとした時、そのおじいさんに呼びとめられた。すると、おじいさんは、私に一枚の紙を手渡してくれた。その紙には、こう書いてあった。

「優しい言葉一つで、冬中温かい。」
おじいさんは、私に紙を手渡し、微笑みながら、こう言ってくれた。

「この言葉は、自分がとても大切にしている言葉なんだ。今日、あなたとお話できてとても楽しかった。あなたの言葉で心が温かくなったよ。ありがとう。」

私は、自分の言葉が相手の心に届くことのうれしさを感じた。それがこんなにも幸せなことだということを初めて知ることができた日だった。寒さが厳しい冬の日、私の心は温かかった。

紋 たえこさん(神奈川県 / 80代)

買い物から帰った夫が「はい、これー」と紙袋を差し出した。
条件反射で何の疑いもなく「有難う」と言って受け取った。プレゼント?

夫は、誕生日や記念日なんていつも知らん顔している人だ。「誕生日、ウナギでも食べに行きますか」といえば、「俺の誕生日如きでガタガタ騒ぐなよ」といいながら、食べに行く。夫は今年八六歳、私八十歳。めっきり歳をとった二人。元気で後何回、誕生日を迎えられるか?この際、夫の誕生日に思い切って黄色い薔薇を八六本?は無理なので、それなりの薔薇を奮発した。夕食時、ビールで乾杯!「身体に気を付けてね」そっと花束をさしだした。「なんだ、花なんて!花より団子だろう!」ぶっきらぼうに言うかと思いきや、薔薇の花に驚いて「有難うー」と神妙な顔で受け取った。逆に私が驚いて胸がキュンとなる。あの日の紙袋の中身はやはり自分用のバリカンで、以来夫の白髪頭を散髪している。

しかし、薔薇の花を見つめて[有難う]には胸が詰まってしまった。

みかんさん(東京都 / 10代)

みかんさん(東京都 / 10代)

私は父が好きではない。いつもは単身赴任で家にはいないが土日になると必ず帰ってくる。父は家族と過ごす時間を大切にしたいと思っているのだろう。でも、私は嫌だ。

10月の台風の日の前日、私は少し嬉しかった。大雨で、交通機関が停まっているため父は帰ってこれないと思ったからだ。でも、不安もあった。今回の台風はとても大型だとニュースで報道されていたので、水害や停電が起きたらと考えると怖かった。

その日はいつものように布団に入った。だが、夜中部屋の物音で目が覚めた。父が帰ってきていたのだ。父の声はただでさえ大きいのに、夜中だったためさらに大きく響いてすごく憂鬱だった。頭からすっぽり布団にくるまって、もう一度寝た。

朝、起きたときいつものように料理をする母の姿はあったが、父の姿はなかった。父が帰ってきたのは夢だったのか…私が不思議そうにしていると、母がこういった。「夜中にお父さんが帰ってきて、窓を補強したり、風呂に水を貯めておいてくれたよ。水や缶詰め、モバイルバッテリーも買ってきてくれたみたい。お父さんは仕事の関係でまた赴任先に戻ったよ。」ふと、窓をみると乱雑に貼られたガムテープが目に入った。あまりにも雑だったので笑ったが、同時に申し訳ない思いでいっぱいだった。こんなに家族のことを思ってくれていることに感謝した。嬉しかった。そのおかげで私は台風が来たときも安心して過ごすことができた。

今、父にありがとうと伝えたい。そして、雑だったテープのことも話したい。

マーベラスなゆどうふさん
(群馬県 / 10代)

私の父は正義感が強く何事も全力で世の中をより良くしようと適切な判断で物事を考え動いているような人です。今年日本各地に記録的な大雨を齎した台風により私の町でも川が氾濫して家の中にまで泥が入るなどの被害が出ました。次の日の朝、私と弟二人と父でボランティアをしに出かけました。川の近くの住宅地とを結ぶ幅約五メートル長さ約五十メートルほどの橋に木が溢れるのではないかというほど積もっていてショックでした。中学生の頃よく自転車で通っていたからです。そのとき父は木を一本一本手作業で道の端へ運んでいました。手伝いましたが無茶だと思いやる気が沸きませんでした。そのとき父は「誰かがやり始めれば人が集まってくる。」と言い、「誰かがやり始めなければ終わらない。」と言いました。その結果人が集まり始め一日はかかると思っていた作業が午前中でコンクリートの見える状態にもどりました。気が遠くなる作業は始めのうちはどうしても取り掛かりにくく誰もしたがりません。ですが一人が始めると皆やる気になり協力し合うことができます。私は作業をする中で地元のすばらしさを感じました。そして朝見るだけで帰ってしまう人もいる中作業を始めた父のこともすごいと思いました。これから故郷にいることは少なくなると思いますが、私はこれからも故郷のすばらしさを忘れず父のように立派な人になりたいです。

みかん丸。さん(岐阜県 / 10代)

「どうして分からないの?」と家中に大声が響きました。私の両親は、日本人ではありません。そのせいで言葉が通じず、よくけんかになります。どこへ出かけるにも誰かと会話するにも私を間に入れないといけません。昔から、そんな両親がはずかしく、きらいでした。

ある夏の日、母は私に「旅行へ行こう」と言いました。私は、しぶしぶ行くことになりました。旅行先でもけんかになってしまいました。その日の夜、母が私を呼びました。そこには、きれいな夜景と母がありました。思わず、「きれい」と言ってしまい、母とのけんかがうそのようにお互い笑顔で会話を続けていました。母が片言の日本語で「ごめんね」と伝えてきました。私は涙が止まりませんでした。言葉だけが全てじゃない。国籍は違っても、気持ちは伝わることを知りました。

夜景の中の母はとてもきれいでした。私は大好きな母から大切なものを学びました。

あきはるさん(神奈川県 / 10代)

おっちょこちょい。僕の家にはそんな言葉があふれている。

祖母はスタバでホットコーヒーをストローで飲んで口を大火傷。(祖父がアイスコーヒーをストローで飲んでいたのでつられたらしい。)買ったケーキを車の屋根に乗せて爆走。

母は出先で荷物をロッカーに入れ、そのまま帰宅。幼稚園も振替休みなのに、お弁当を持って登園したことも十回はくだらない。

僕は、そんなおっちょこちょいとは一線を画しているが、言い間違いが多いのが玉にきず。スネオのことをずっと「あいつは巾着袋だ。」と言ってきたし(正しくは腰巾着。)先日来日された方の事を「ローマ皇帝が来た。」と言っていた。(正しくはローマ教皇。)

僕は書いてるだけであまりに恥ずかしいから、エピソードを袋とじにホッチキスしたい。そして時々袋とじを開けて、フフフと笑いたい。